白鬚神社 目安箱(掲示板) http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/ ja 2012-01-13T07:58+09:00 ●小正月 http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=88&mode2=0 旧暦の一月一日を「大正月」というのに対して、一月十五日を「小正月」と言います。もともと日本では【望(ぼう)】、すなわち「満月の日(旧暦の十五日)」を正月としており、小正月はその名残です。「女正月」とも呼ばれるのは、大正月、女性は休む間もないほど多忙であり、その代わりに、この日、女性だけが集まって飲食や娯楽に興じる風習があったからです。 年神が神の世界へと帰って行くこの日の夜には、各地で「鬼追い行事」が行われました。「ナマハゲ」に代表される鬼たちが、なぜに喜びをもって人々に迎え入れられたかというと、宇宙の邪悪なものを象徴させた「鬼」が、国家や村落、家々のケガレを一身に背負って退散してくれる役割を担っていたことによります。 又、この日には「予祝(よしゅく)」といって、五穀豊穣を祈願して行われる占い的要素をもつ前祝い行事も行われました。 ・【鳥追い】   田畑の害鳥を追い払うという意味で、子供たちがササラや棒を打ちつつ家々を回る行事。 ・【成り木責め】 実のなる木に、「ならぬか、ならぬか」などと詰問(きつもん)して豊作を約束させる行事。 道開き 2012-01-13T07:58+09:00 ●「トシ(年)神」 http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=87&mode2=0 正月行事の基本は、「年神」と呼ばれる神格を家々に迎えまつることにあります。この神の性格は複雑で、 ①農耕を行って来た人びとの間では農作を助けてくれる「農耕神(穀霊神、田の神)」としての性格が強く、「トシ」とは「稲」を表す古語でもあり、一年をかけて稲作が行われたことにより、「年」の字が当てられたとされます。 飽食の時代と言われる今日とは異なり、「稲(イネ)」は「命(イノチ)の根(ネ)」と考えられていました。 ②一般的には、個々の祖霊としての性格が浄化され、大いなる神格へと高まった「祖霊神」として捉えられます。 一年を両分する「お正月」と「盆」の行事には、多くの類似性が指摘されています。例えば、正月の年神棚と盆の精霊棚、正月の松迎え・左義長(ドント焼き)と盆花迎え・送り火など。 つまり、死後三十三年(または五十年)の「弔(とむら)い上げ」以前の祖霊は「お盆」の祭祀の対象となり、「弔い上げ」が終わり、浄化が進んで供養を受けなくてもよくなった、霊格が神の域にまで高まった祖霊は「お正月」の祭祀の対象になるということです。 昔から、米にはご先祖様の霊魂が宿っていると語り伝えられてきたのも、上記①②に由来してのことなのでしょう。 年神は十二月の大晦日にやって来て、ほぼ半月間家々に滞在し、「小正月」と呼ばれる一月の十五日の朝に、松飾りを焼く「ドント焼き」の煙に乗って、神々の世界へと帰って行くとされました。 人々は餅や若水で作った「おせち」などを供えて年神をもてなしました。年神に供えた「鏡餅」には年神の霊が宿り、それを食べることで一年の無病息災が保証されると考えました。「お年玉」も同様に、年神の魂(タマ)を分与してもらうことに由来します。 ●松飾り 松飾りには二つの役割があります。一つは、年神の「依代(よりしろ)」で、訪れて来る神さまの依る座としての役割。もう一つは、「松飾り」、「注連飾り」を張った内側、つまり、家の中が聖なる空間になることを示す「結界」としての役割です。 道開き 2011-12-23T19:26+09:00 ●「陰陽五行説」の我が国への伝来時期 http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=86&mode2=0 ◆道教 我が国への大陸伝来の宗教を考えたとき、最も早くに伝来したのが「道教」です。3世紀末に著された中国の三国時代の歴史書『魏志倭人伝』にある、「倭(わ)の国の邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)が鬼道(きどう)をよく使っていた」という日本に関する記述の中の、“鬼道”というのが道教呪術であったことが、最近の考古学的発見により確実なものとなりつつあります。 (私個人としましては、邪馬台国〈やまたいこく〉が大和国〈やまとこく〉で、大和朝廷初期の小国家のことで、卑弥呼〈ひみこ〉が日御子〈ひのみこ〉で、天皇と呼ばれる以前の大王〈おおきみ〉の呼称だったのではなかろうかとも考えていますが、ハッキリしたことは言えません。) 初期大和朝廷の都があったとされる奈良県の飛鳥地方からは、道教のシンボルである“亀”をモチーフにした遺跡・亀石(かめいし)なども見つかっています。ということは、大和朝廷の成立期には、国家規模で道教が受け入れられていたということになります。 大陸と日本との関わり合いの歴史をみてみると、稲作の伝播は今から約二千五百年前の弥生時代(中国の春秋戦国時代)とされてきましたが、九州地方に範囲を限定した場合には、更に千年前の縄文時代後期にまで遡るという新説が有力とされています。稲作に限らず、文化の伝播というものは何事であっても、思いのほか速いようです。 紀元を前後する時期から三世紀頃にかけて、統一政権の大和朝廷が成立します。 四世紀後半には、大和朝廷が朝鮮半島との間で頻繁に交渉を持っていたことが、高句麗の広開土王(好太王)碑文に記されています。「百済と新羅はもともと高句麗の属国として貢ぎ物を献上していたが、391年以来、日本が出兵し、百済・新羅と結んだので、396年に好太王みずからが兵を率い百済を討った。397年には日本と百済が協定して新羅を攻め、404年には、半島北部にまで軍を進めた」とあります。日本の史書『古事記』『日本書紀』にも、神功皇后(じんぐうこうごう)の「三韓征伐(さんかんせいばつ)」としてそれらの事が記されています。 ◆陰陽五行思想 これらの史実は、大和朝廷が成立した当初から、大陸との間に盛んな往来があったということを示しており、恐らくは漢字が伝わったのと同時期に、道教も、当時の最新思想、最新テクノロジーとして、「陰陽五行説」も伝わっていたと考えられます。 国史の中の「陰陽五行」に関する記述には以下のものがあります。 ○『日本書紀』継体天皇7年(513)の条に、百済から五経博士が貢られたと記されている。 ○孫の欽明天皇の14年(553)の条に、新羅、高句麗から圧迫を受けていた百済よりの援軍要請に対し、「援軍は百済王の望みのままにせよ」と応えたと同時に、 「医(くすし)博士、易(やく)博士、暦(こよみ)博士は当番制により交代させよ。今、上記の人は、ちょうど交代の時期になっている。帰還する使いにつけて交代させよ。また、卜書(うらのふみ)・暦本、種々の薬物などを送るように」という要求を携えさせたと記されている。 ※前年には、仏像、仏具、経論を献上されており、このことが日本への「仏教公伝」とされています。中国に仏教が伝わったのは一世紀頃の後漢の時代で、四世紀頃から広まり始め、経典の漢訳も進み、四世紀末から五世紀の頃には朝鮮半島にまで広まっていたと考えられています。 ○推古天皇の10年(602)の条には、百済僧の観勒(かんろく)が訪朝し、暦本や天文・地理書、遁甲(とんこう)・方術書を献上したと記されている。 ○天武天皇(在位673~686年)の時代、律令体制の整備、神道・仏教の掌握、国史編纂などの数々の施政により大和朝廷を盤石なものにした。 同時に、天武天皇は陰陽道にも通じており、『日本書紀』天武天皇の条の随所に「天皇は天文や遁甲の術をよくされた」、大友皇子を討つべく軍を起こした際に、「式(ちょく、一種の占盤)を執り占った」といったことが記されている。 ◆呪禁道(じゅごんどう) 初期の律令時代の「陰陽道」は、主に天文、暦算などによる日や方位の吉凶等を“陰陽五行の理”によって判断し、バランスを整えて物事の解決をはかろうとするものでした。 それがどうして、安倍晴明や蘆屋道満(あしやどうまん)などの陰陽師に代表される、呪術性の強い「陰陽道」へと変化していったのかというと、同時期 (577年頃) に伝来していた呪術的道教・「呪禁道(じゅごんどう)」を吸収したことによります。 呪禁の「禁」は、「刀を手にして呪文を唱え、毒獣悪鬼、悪霊、病を退ける意」とされる。呪禁師(じゅごんし)たちは、呪術医として典薬寮(てんやくりょう)という国家機関に所属していましたが、吉備真備(きびのまきび)によって典薬寮が廃止されます。 存思(ぞんし)、禹歩(うほ)、掌決(しょうけつ)、手印(しゅいん)、営目(えいもく)の五法を行使したとされる呪禁師は、今でいうところの、気功師で、漢方医であり、呪術師でもあるといった存在だったようです。 ◆修験道の中の道教・密教 大和朝廷成立以前から野(や)にあった民間「道教」は日本古来の山岳信仰と結びつき、修験者たちによって独自な発展を遂げていました。「修験道」の開祖とされている役小角(えんのおずぬ、役行者〈えんのぎょうじゃ〉とも呼ばれる)が有名です。小角の弟子の一人であったとされる韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は、呪禁師であったとされています。 五世紀頃に成立したとされる、仏教とヒンズー教などのインドの土着宗教が習合して出来上がった呪術性の強い「密教(みっきょう)」の場合も、雑密(ぞうみつ)といって、体系化されていない、純粋密教の断片とでもいうべきものが、七~八世紀頃の日本の山岳修行者たちの間には逸速く伝わっていたようです。彼らに送り出されるようにして入唐し、密教の正統を引き継いで帰った(806年)のが弘法大師・空海です。      ★★★ とにかく、“官”に比べて“民”のスピードというのは、今も昔も、実に速いです。 当時は、渡来人たちによって、多くの事物が逸速くもたらされていたということになります。その早さには驚嘆させられます。 現在では、これら「道教」「陰陽道」の多くの要素が、神道行事や家庭祭祀の中に引き継がれています。★★★ 道開き 2011-09-10T16:35+09:00 ●陰陽五行思想 http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=85&mode2=0 古代中国文明発祥以降、数千年もかかって出来上がった「陰陽説」と「五行説」が、B.C4世紀の戦国時代の末頃に合体し、『陰陽五行思想』となったといわれています。これは、古代ギリシアの自然哲学とも対比されるほどに高度な哲学だともされています。その大要は以下のようなものです。 太陽から降り注がれる光は一年を通じて増減し、そのために春夏秋冬の四つの季節が生じている。この四季節の変化の推移を説明するものが陰陽五行思想である。 つまり、〈この世の初め、宇宙はいまだ混沌たる状態であったが、やがてその混沌の中から、軽く清んで暖かい気、すなわち【陽】の気がまず上昇して「天」となる。それと同時に、重く濁って寒い気、すなわち【陰】の気が下降して「地」になったという。 この二つの気・【陰陽】は、一年を周期として代わる代わるに消長盛衰する。その消長する間に、【木火土金水】という五つの活力のある気を生じる。この【木火土金水】も、【陰陽】と同じように一年を周期として代わる代わるに消長盛衰し、そのため一年の間に春夏秋冬の四季節の別が生じる〉という。 ●四季への五行配当 春 ― 「木」 夏 ― 「火」 秋 ― 「金」 冬 ― 「水」 「土」は四季のどこに配当されるかというと、暦の二十四節気の中の、四立(立春・立夏・立秋・立冬)の前の18日間(合計73日)を「土用」とし、季節を変化させる働きをもたせた。 ちなみに「土用」は本来、「土旺用事」「土王用事」といい、土の気が旺(さかん)になり事を用いる意であった。用は「はたらき」ということで、土気の最も働く期間ということ。 「土」には、元来、物を変化させる作用があるとする。 道開き 2011-08-12T17:58+09:00 ●『先祖の話』 http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=84&mode2=0 日本民俗学の草分けともいえる柳田国男の代表作です。「祖先崇拝」は、私の大学時代の卒論のテーマでしたので柳田国男全集はそれなりに目を通したものでした。 現在の日本において行われている祖先祭祀は、江戸期の徳川幕府によって推し進められた寺請制度により、お寺で行われている場合が多いのですが、その内容はというと、仏教というよりもどちらかと言うと、儒教や神道などの東アジア特有の「祖先崇拝」にあります。 テレビやグラビアなどで、インドなどの南アジアの人たちがお墓を建て「先祖供養」している姿を見たことがあるという方はいない筈です。仏教本来の教えでは、死後四十九日間は“中陰(ちゅういん)”<又は、中有(ちゅうう)とも云う>という全くの「無」の時間に入り、その後、魂が六道のいずれかに“輪廻転生”するのだとしています。つまり、「先祖供養」のような事は必要ないのです。 日本古来の民俗における「祖先祭祀」を見ると、死者は三十三年、又は五十年の期間に渡って、生者(子孫)からの供養を受け、その後、「弔い上げ(とむらいあげ)」が行われて、個としての霊殻を捨て去り、“ご先祖様”という霊の集合体(何十代、何百代にも及ぶ)に入るものとされてきました。 そうなると、お墓や御霊舎(仏壇)における祭祀は終わり、「祖霊神」となって、屋敷神やお正月様として祭祀を受ける対象となります。 私の今日までの神職としての経験から鑑みても、お墓や仏壇を粗末にすることによる障りよりも、屋敷神や神棚を粗末にすることによる障りの方がはるかに恐ろしく、逆に、丁寧にお祀りすることによる守護は大きなものとなります。 つまり、個人を相手にするか、団体組織を相手にするかの違いみたいなものです。 「個人主義」が蔓延している昨今では、こういった「ご先祖様」だとか、「国家」だとか、「地域(コミュニティー)」だとかいった概念は弱まりつつあるようにも思われます。良くない傾向だと思われます。 ◆崇拝する対象 「生前にこの世で生きていた人を、どうして神社に神としてお祀りするのか」といった疑問を持たれる方も多いのではないかと思われます。それは、その方の生前の行いが神的側面を持ち合わせていたからということになります。さらには、そういった方たちを神として神社にお祀りすると、その背後にも、似た様な側面を持った勢力の神霊団が組織されてくるようになります。 それとは逆に、“悪魔崇拝”の様なことをしていると、「類は友を呼ぶ」的に、似たような勢力のモノたちが集まってきます。それが恐ろしいのです。そして、「人を呪わば穴二つ」的に祭祀者自身も自滅してしまいます。 道開き 2011-06-04T07:13+09:00 “ サクラ ” http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=83&mode2=0 明日は、県内の若手神職からなる宮城県神道青年協議会の方たち10名程がいらして、復旧作業を手伝ってくださることになっています。有難いことです。 早いもので、当地も桜の季節となりました。 「花祭り」というと仏教では、お釈迦様の誕生にあたって天上から色彩りどりの花々が舞い降りてきたとされ、四月八日、釈迦像に甘茶を注いでお祝いする慣わしになっています。しかし、実際は、日本古来の「山籠もり」・「花摘み」・「山開き」といった民俗行事が仏教と習合したものだということです。 山里に花が咲く頃、日本の古え人たちは豊穣をもたらす山の神が里へ降りてきたと考えました。そして、田の神となって米作りの手助けをしてくれると信じました。 因みに、“サクラ”の語源は、“サ”が「小さな」という義で、転じて「稲の霊」を意味し、“クラ”は「座」で、「神が宿る依代(よりしろ)」ということになります。よって山の花々も、山の神の依代(よりしろ)と考えられていたようです。 道開き 2011-04-21T18:32+09:00 東日本大震災の被害状況について ② http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=82&mode2=0 昨日、父の持病の薬をもらいに掛かりつけの病院まで足を運んだ際に、被災した地区の氏子のAさんから声をかけられました。 山神社の隣に住んでいた氏子のT屋さんから木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)の御神体を預かっているという、比較的、津波の被害を受けなかった地区に住むOさんが今、丁度に待合室にいるので会って欲しいということでした。 Aさんは現在、車で20分ほど離れた地区に集団避難していて、本当だったらここの病院に来ることもなかったのだが、この為に呼ばれたんだなと語っておられました。信仰の灯は消すことなく点し続けておられるようでした。 Oさん宅から御神体を受け取り、社務所神殿にお移しすることができました。 道開き 2011-04-12T10:13+09:00 東日本大震災の被害状況について http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=81&mode2=0 報告が遅れてしまい、大変申し訳なく存じ上げます。 河口付近は6~7メートルの津波が来襲したようで、 白鬚神社、山神社、針生稲荷神社の社殿の多くは流出してしまいました。 ただし、白鬚神社の本殿(末社の五十鈴神社、不動神社の本殿も)は流出せず、境内地に留まり、それぞれの御神体はだいぶ離れたところにある社務所(宮司宅)の神殿にお移しすることができました。 その地も、3メートルほどの津波がやってきましたが、建物も、我々亀廼井家の者たちも何とか無事でした。 山神社、針生稲荷神社の本殿も、流出せずにその地に留まっていましたが、御神体が見当たらずにおります。その状況から見て、近くの氏子のいずれかの方かが、戻ってから一時的に保管して下さっているようにも思われます。氏子の方たちとは連絡が取れずにいます。 海津見神社の御神体は、神社の裏に住む氏子の方が保管して下さっていて、この目で確認することができました。大きな毘沙門天像なのでそのまま預かってもらっています。 ご近所の方々、町内会の皆さん、地元消防団の皆さん、被災部隊でもあった陸上自衛隊多賀城連隊の皆さんには本当にお世話になりました。 政府関係者、メディア関係の皆様、日本のみならず世界中のご支援くださっておられる皆様には心から感謝申し上げます。 道開き 2011-04-02T14:29+09:00 ●旧正(旧暦の正月) http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=80&mode2=0 本来ならば、第一月である正月が、十二支の始まりの子(ね)の月というのが自然ですが、漢時代以降の中国では、夏(か)の時代〈紀元前22世紀~前16世紀〉の正月・寅(とら)月を採用しました。 周(しゅう)の時代〈紀元前10世紀~前3世紀〉には、“冬至(とうじ)”を含む子(ね)月を正月とし、周の前の殷(いん)の時代〈紀元前16世紀~前10世紀〉には、それより一か月遅れた丑(うし)月を正月に、殷よりもさらに古い夏の時代には、さらに一か月遅れた“立春(りっしゅん)”に近い頃の寅(とら)月を正月としていました。 日本の旧正月は“立春系”であり、新正月は“冬至系”です。 道開き 2011-01-29T07:28+09:00 ●干支(えと) http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=79&mode2=0 「来年の干支(えと)は何ですか? 」「あなたの干支(えと)は何ですか?」といったように、現在では、干支(えと)という言葉は「十二支獣」の名称を言い表す言葉として使用されています。 「十二支獣」とは、中国歴代王朝が暦(こよみ)を周辺の未開の地方に伝えるために、子、丑、寅・・・・といった十二の記号であった“十二支”に、覚えやすい動物名(ね、うし、とら・・・・)を配したものとされています。 ちなみに「えと」という呼称は、“十干”(じっかんの「甲・乙・丙・丁・・・・・」)に五行(木・火・土・金・水)を配当し、“陽”を「兄(え)」、“陰”を「弟(と)」といったように区分した呼び名のことです。(例えば、「甲」だと「木の兄(え)」、「乙」だと「木の弟(と)」といったように) “十干”の起源は、中国の殷(いん)の時代〈紀元前16世紀~前10世紀〉とされており、当時は、ひと月を10日ごとに、上旬・中旬・下旬の三つの旬に分けて占う「卜旬(ぼくじゅん)」が広く行われており、一旬に含まれる10日間の一日一日を示す数詞であったといいます。 “十二支”は“十干”よりも古く、初めは単に十二ヶ月の順序を示すための符号(数詞)でした。後に年・日・時刻、方位などを表すための記号としても使われるようになります。 もともとは、五惑星のうち最も尊貴とされた木星の運行からきたもので、木星(歳星)が12年で天を一周することから、木星の位置を示すために、天を十二分した場合の呼称が“十二支”でした。 紀元前14世紀頃の殷の時代の甲骨文の中に、日を記述するために干支が使用されていた例が発見されており、記年法として用いられ始めたのはかなり新しく、紀元前1、2世紀頃であるとされています。 中国戦国時代の末頃には、天地間の万物が、陰と陽との二気によってつくり出されているという「陰陽説」と、「木・日・土・金・水」の五気の働きによって成り立つとする「五行説」が合体して『陰陽五行思想』が成立します。それが、“易(えき)”の八卦(はっけ)、九星(きゅうせい)などと共に、暦の中の“十干”、“十二支”と複雑に絡み合って、中国暦が生みだされました。 道開き 2011-01-29T07:25+09:00 ●霜月まつり ② http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=78&mode2=0 旧霜月(新暦では、今年の12月6日~来年の1月3日)のこの寒い時期に、テレビ各局で開催される様々な歌謡祭は、神道的見地からして、十分に伝統に則したものにも思われます。 道開き 2010-12-05T07:48+09:00 ●霜月まつり http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=77&mode2=0 旧暦11月の霜(しも)月には、全国的に、その年の収穫への感謝と、あくる年の豊作を予祝(よしゅく・・・予め祝ってしまう意。そうすることによって、豊作が約束されると考えたから)する、様々な祭が行われています。 特に、「湯立(ゆだて)神事」や「霜月神楽(かぐら)」が有名です 。 この頃は、冬至(とうじ)の時期とも重なり、ある意味、太陽が〈死〉から〈生〉へと転換する頃でもあり、「太陽の再生」と「生命力の豊穣」が祈念されたのでした。 古来、宮中においても、冬至の頃には、太陽神・天照大御神の後裔で、大御神と同魂胴体の、日の御子とされた天皇の御魂も弱くなっていると考えられ、全国からそれぞれの国魂(くにたま)を身に付けた八乙女(やおとめ)が呼ばれ、天皇の霊力を復活させ、新生させるための鎮魂(ちんこん)祭において、「タマシズメ」、「タマフリ」の業(わざ)が執り行われました。 これらの祭は、『古事記』、『日本書紀』等に記される「天の岩戸開き」神話に起源し、それを再現しているということになります。 つまり、天照大御神の「岩屋戸こもり」は、太陽が再生するための象徴的な死であるとされ、岩屋戸の前で、「桶(おけ)伏せて踏みとどろかし、神懸かりして・・」舞い、「天の岩戸開き」を行った天宇受女命(あめのうずめのみこと)は、“神楽の神”、“鎮魂の神”、そして、“巫女の守神”、“舞踏、芸能の守神”とされています。(当白鬚神社の御祭神の一柱でもあります) 忌部(いんべ)氏の『古語拾遺(こごしゅうい)』には、 「凡(すべ)て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は天鈿女命(あめのうずめのみこと)の遺跡(あと)なり」とあります。 道開き 2010-12-03T20:50+09:00 ●「まつり」の意味 http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=76&mode2=0 「まつり」とは、神に御食御酒(みけみき)や幣帛(へいはく)といったお供え物を「タテマツル」意であるとされています。他にも、動詞の「待つ」を語根とした言葉で、神さまの降臨を待ち迎え、神を饗応する(おもてなしする)義であるという説があります。 「まつり」の基本構造はというと、「神を迎えー饗応しー送る」というもの。そうして共同体の活力を再生・更新させるものでした。そして、「まつり」とは本来、厳格な「物忌(い)み」により清まった、神事に携わる資格のある者だけが参加して、深夜などにひっそりと行われるものでした。 その中で最も本質的で重要な儀礼はというと「神人共食(しんじんきょうしょく)」、つまり、神と人とが共に食事をすることにあります。それは国家を挙げて行ってきた最高の祭りから、村の鎮守の小社の祭り、そして、盆・正月、節句、月見の宴・・などの家庭の祭りに至るまで共通しています。 道開き 2010-10-08T07:48+09:00 ●世襲制とカリスマ http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=75&mode2=0 下の書き込み〔74〕に続きます。 マックス・ウェーバーが、カリスマの本質を「原型」という形で提示しながら、かなり広い亜型的な現象にもこの概念を適用したために、広狭二様の用法を志向する研究者の対立が生じてきています。そこで原型と亜型との区別が明確になるようなM・スペンサーの見解が注目されます。 【A】“超自然的な”カリスマ (ウェーバーの原型的用法におけるカリスマ)    ①教祖や創始者の原型的な超自然的カリスマ    ②その人物の資質として直接与えられたものではなく、先行する存在の     カリスマ的な権威に全面的に依存し、従属する二次的な超自然的カリスマ。 【B】“世俗的”カリスマ (近代の政治的指導者のカリスマ) 世襲制の中に身を置く者にとりましては、(A)―②の分類が、やたらと気にかかるところではあります。 ここ最近でも、70年前のディズニーのアニメ映画『ファンタジア』をリメイクした、『魔法使いの弟子』という実写版映画が上映されているようです。 ※「カリスマ化過程」に対する見解 ・ウェーバーは、カリスマとは非日常的手段により獲得でき、「ある種の苦難や苦行によって惹き起こされる異常な状態が超人間的な(呪術的な)諸力を獲得するための通路」であるとも述べている。 ・川村邦光は、「公認された逸脱の儀式である通過儀礼が、カリスマ化過程と類似した過程を持つ」とする。 ・そういった見解に対し、アイゼンシュタットは、「通過儀礼においては、社会からの一時的分離、逸脱は制度上許可されているのに対し、カリスマ化過程の場合、社会からの逸脱、もしくは対立は、個人によってなされる。カリスマの担い手は、社会秩序と対立することにより逸脱の烙印を押される」としている。 道開き 2010-08-20T07:50+09:00 ●カリスマ論における「スティグマ」 http://michi-bbs2.webdeki-bbs.com/?pid=michi-bbs2&mode=pr&parent_id=74&mode2=0 “カリスマ”という概念を初めて提唱したのは、ドイツの社会学者のマックス・ウェーバーです。 よくテレビを見ていると、若い人たちが、「あいつは、持っている」などと口にしているのを耳にしますが、おそらくは“カリスマ性”を持っているということを今風に語っているのでしょう。 しかし、“カリスマ性”というのは、「持っているか、持っていないか」、「0か100か」というものでもなく、おそらくは誰でもが、多少なりとも持ち合わせている資質のようにも考えられます。 “カリスマ”を論じる際には、「スティグマ」という概念も重要になります。 人が“カリスマ性”を発揮する前提には、〈社会から逸脱するといった側面〉が見られるというのです。 つまり、ドブに落ちたり、泥まみれになるような経験を踏まないことには、神さまから召命されたような、本当の意味での社会的大仕事は成し遂げられないということにもなるのでしょう。 ●●カリスマという概念の定義●● 「〝カリスマ〟とは、非日常的なものとみなされた(元来は、予言者にあっても、医術師にあっても、法の賢者にあっても、軍事英雄にあっても、呪術的条件に基づくものとみなされた)ある人物の資質をいう。 この資質の故に、彼は、超自然的、または超人間的、少なくとも特殊非日常的な、誰でもが持ちうるとは言えないような力や性質に恵まれていると評価され、あるいは神から遣わされたものとして、あるいは模範的として、またそれ故に〈指導者〉として評価されることになる。 当該の資質が、何らかの倫理的、美的、またはその他の観点からするとき、〈客観的に〉正しいと評価されるであろうかどうかは、いうまでもなく、この場合、概念にとっては、全くどうでもよいことである。その資質が、カリスマ的被支配者、すなわち〈帰依者〉によって事実上どのように評価されるか、ということだけが問題なのである。」 ●●「スティグマ」という概念●● 『社会学小辞典』によれば、対人的状況において、正常からは逸脱したとみなされ(望ましくない、汚らわしい等)、他人の蔑視と不信を買うような欠点、短所、ハンディキャップなどの属性。 ◆「自己スティグマ化」 「スティグマ」という概念が、カリスマに対峙するものとして提起されたが、“カリスマ化過程”においては「スティグマ」的側面も見られ、社会学者リップにより、以下のようなカリスマ論が提唱されました。 ・スティグマの担い手は、自己アイデンティティが不安定なものになり、否定的な価値、社会的評価を無効とし再規定しようとする。すなわち、スティグマの意味、内容を、象徴的操作により変える、すなわち、社会的に下された否定的価値を肯定的価値へと変容しようとする。このスティグマの対抗評価により、カリスマはスティグマを積極的に引き受け、それを自己の肯定的要素とする。 リップは、対抗評価によるスティグマの積極的受容を「自己スティグマ化」と呼んでいる。それは社会の吐き出す穢れを一身に背負うといってもよい。 「自己スティグマ化」により、スティグマとカリスマとは相互に交換可能なものになる。「自己スティグマ化=カリスマ化」は、帰依者集団の形成から、社会の構成員全体の動員に及ぶダイナミックなカリスマ運動を推進する。 ・カリスマ的人間は、従来の象徴的世界とは全く異なった、新しい救済財を与える者として登場するが故に、社会にとって大きな脅威となる。このような意味において、カリスマの担い手は、たとえ帰依者を獲得しても、やはり社会によっては逸脱者、狂人というレッテルや徴を付与される。 ◆官僚制的支配とカリスマ的支配 『支配の社会学』においてウェーバーは、遠い過去においては、ほとんどの支配関係が、伝統とカリスマとによって両分されていたとしている。しかし、歴史が進展するにつれて顕著となる官僚制的支配と、カリスマ的支配は正反対の面を持つ。経済的基盤からみると官僚制的支配は、恒常的な収入に依存しているが、カリスマとは、この世の中に生きているのではあるが、この世を糧として生きているのではない。 制度的な永続的組織の発展が進むにつれて後退してゆくということは、カリスマなるものの宿命である。よって、官僚制化が進んだ社会においては、カリスマとは、かってほど顕著に見られる現象ではないようにウェーバーは見なしている。 ◎参考 ―情報化社会における神々の再生― 『現代日本の新宗教』(創元社)  桃山学院大学 沼田健哉 著 道開き 2010-08-18T10:22+09:00