白鬚神社 目安箱(掲示板)

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[89] ●新たなる境内地 Name:道開き Date:2012/02/26(日) 10:29 
全国の神社関係者の皆様には、多大なるご支援を賜り、心より感謝申し上げます。
白鬚神社氏子会では、度重なる協議の結果、下記の通り、白鬚神社の再建計画を立案致しております。
3月7日に開催される市の説明会に提出し、タウン・プランナーに計ってもらう予定でいます。



@移転場所
白鬚神社(新町地区)、山神社(新町地区)、針生稲荷神社(新町地区)、御霊宮(亀岡)は、現在地での再建は困難となるため、新たなる境内地を、新町地区の高台集団移転予定地の近くに求め、一カ所でお祀りすることとする。
各神社の旧境内地については、市に対して買い取りの申請を行う。


A石板碑類
新町・亀岡地区の各所に点在する庚申塔などの石板碑類(歴史文化遺産)も、ここに移設してお祀りする。。(約30基ほど)


B境内地の取得方法
高台集団移転予定地並びにJR仙石線の新コース上に鎮座する、新山神社(亀岡地区・亀廼井宮司宅裏山の山頂部)の買収には応ぜずに、新境内地との交換の形を取る。


C新境内地の植林
日本文化興隆財団が主催する「みんなの鎮守の森 植樹祭」の実施要項に基づく事業として推し進める。(諸経費を含め五百万円以内までの助成を受けられる。)


Dその他
周りに、遊歩道を有する自然公園、高台公園のようなものが有れば、自然と親しんだり、地域の歴史を回顧したりできる憩いの場とも成り得るし、緊急時の避難場所とも成り得るのではとも考える。


※仮本殿 
新境内地確定後、県の神社庁に申請し、建立してもらうことになっています。

さらに、平成25年以降の伊勢神宮遷座祭において、社殿350棟の建て替えが行われるにつき、古社殿の払い下げが受けられるよう、亀廼井禰宜が働きかけを行っていく予定です。


[88] ●小正月 Name:道開き Date:2012/01/13(金) 07:58 
旧暦の一月一日を「大正月」というのに対して、一月十五日を「小正月」と言います。もともと日本では【望(ぼう)】、すなわち「満月の日(旧暦の十五日)」を正月としており、小正月はその名残です。「女正月」とも呼ばれるのは、大正月、女性は休む間もないほど多忙であり、その代わりに、この日、女性だけが集まって飲食や娯楽に興じる風習があったからです。

年神が神の世界へと帰って行くこの日の夜には、各地で「鬼追い行事」が行われました。「ナマハゲ」に代表される鬼たちが、なぜに喜びをもって人々に迎え入れられたかというと、宇宙の邪悪なものを象徴させた「鬼」が、国家や村落、家々のケガレを一身に背負って退散してくれる役割を担っていたことによります。

又、この日には「予祝(よしゅく)」といって、五穀豊穣を祈願して行われる占い的要素をもつ前祝い行事も行われました。

・【鳥追い】  
田畑の害鳥を追い払うという意味で、子供たちがササラや棒を打ちつつ家々を回る行事。

・【成り木責め】
実のなる木に、「ならぬか、ならぬか」などと詰問(きつもん)して豊作を約束させる行事。


[87] ●「トシ(年)神」 Name:道開き Date:2011/12/23(金) 19:26 
正月行事の基本は、「年神」と呼ばれる神格を家々に迎えまつることにあります。この神の性格は複雑で、

@農耕を行って来た人びとの間では農作を助けてくれる「農耕神(穀霊神、田の神)」としての性格が強く、「トシ」とは「稲」を表す古語でもあり、一年をかけて稲作が行われたことにより、「年」の字が当てられたとされます。
飽食の時代と言われる今日とは異なり、「稲(イネ)」は「命(イノチ)の根(ネ)」と考えられていました。

A一般的には、個々の祖霊としての性格が浄化され、大いなる神格へと高まった「祖霊神」として捉えられます。

一年を両分する「お正月」と「盆」の行事には、多くの類似性が指摘されています。例えば、正月の年神棚と盆の精霊棚、正月の松迎え・左義長(ドント焼き)と盆花迎え・送り火など。
つまり、死後三十三年(または五十年)の「弔(とむら)い上げ」以前の祖霊は「お盆」の祭祀の対象となり、「弔い上げ」が終わり、浄化が進んで供養を受けなくてもよくなった、霊格が神の域にまで高まった祖霊は「お正月」の祭祀の対象になるということです。

昔から、米にはご先祖様の霊魂が宿っていると語り伝えられてきたのも、上記@Aに由来してのことなのでしょう。


年神は十二月の大晦日にやって来て、ほぼ半月間家々に滞在し、「小正月」と呼ばれる一月の十五日の朝に、松飾りを焼く「ドント焼き」の煙に乗って、神々の世界へと帰って行くとされました。

人々は餅や若水で作った「おせち」などを供えて年神をもてなしました。年神に供えた「鏡餅」には年神の霊が宿り、それを食べることで一年の無病息災が保証されると考えました。「お年玉」も同様に、年神の魂(タマ)を分与してもらうことに由来します。

●松飾り
松飾りには二つの役割があります。一つは、年神の「依代(よりしろ)」で、訪れて来る神さまの依る座としての役割。もう一つは、「松飾り」、「注連飾り」を張った内側、つまり、家の中が聖なる空間になることを示す「結界」としての役割です。


[86] ●「陰陽五行説」の我が国への伝来時期 Name:道開き Date:2011/09/10(土) 16:35 
◆道教
我が国への大陸伝来の宗教を考えたとき、最も早くに伝来したのが「道教」です。3世紀末に著された中国の三国時代の歴史書『魏志倭人伝』にある、「倭(わ)の国の邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)が鬼道(きどう)をよく使っていた」という日本に関する記述の中の、“鬼道”というのが道教呪術であったことが、最近の考古学的発見により確実なものとなりつつあります。 (私個人としましては、邪馬台国〈やまたいこく〉が大和国〈やまとこく〉で、大和朝廷初期の小国家のことで、卑弥呼〈ひみこ〉が日御子〈ひのみこ〉で、天皇と呼ばれる以前の大王〈おおきみ〉の呼称だったのではなかろうかとも考えていますが、ハッキリしたことは言えません。)
初期大和朝廷の都があったとされる奈良県の飛鳥地方からは、道教のシンボルである“亀”をモチーフにした遺跡・亀石(かめいし)なども見つかっています。ということは、大和朝廷の成立期には、国家規模で道教が受け入れられていたということになります。

大陸と日本との関わり合いの歴史をみてみると、稲作の伝播は今から約二千五百年前の弥生時代(中国の春秋戦国時代)とされてきましたが、九州地方に範囲を限定した場合には、更に千年前の縄文時代後期にまで遡るという新説が有力とされています。稲作に限らず、文化の伝播というものは何事であっても、思いのほか速いようです。

紀元を前後する時期から三世紀頃にかけて、統一政権の大和朝廷が成立します。
四世紀後半には、大和朝廷が朝鮮半島との間で頻繁に交渉を持っていたことが、高句麗の広開土王(好太王)碑文に記されています。「百済と新羅はもともと高句麗の属国として貢ぎ物を献上していたが、391年以来、日本が出兵し、百済・新羅と結んだので、396年に好太王みずからが兵を率い百済を討った。397年には日本と百済が協定して新羅を攻め、404年には、半島北部にまで軍を進めた」とあります。日本の史書『古事記』『日本書紀』にも、神功皇后(じんぐうこうごう)の「三韓征伐(さんかんせいばつ)」としてそれらの事が記されています。


◆陰陽五行思想
これらの史実は、大和朝廷が成立した当初から、大陸との間に盛んな往来があったということを示しており、恐らくは漢字が伝わったのと同時期に、道教も、当時の最新思想、最新テクノロジーとして、「陰陽五行説」も伝わっていたと考えられます。

国史の中の「陰陽五行」に関する記述には以下のものがあります。

○『日本書紀』継体天皇7年(513)の条に、百済から五経博士が貢られたと記されている。

○孫の欽明天皇の14年(553)の条に、新羅、高句麗から圧迫を受けていた百済よりの援軍要請に対し、「援軍は百済王の望みのままにせよ」と応えたと同時に、
「医(くすし)博士、易(やく)博士、暦(こよみ)博士は当番制により交代させよ。今、上記の人は、ちょうど交代の時期になっている。帰還する使いにつけて交代させよ。また、卜書(うらのふみ)・暦本、種々の薬物などを送るように」という要求を携えさせたと記されている。

※前年には、仏像、仏具、経論を献上されており、このことが日本への「仏教公伝」とされています。中国に仏教が伝わったのは一世紀頃の後漢の時代で、四世紀頃から広まり始め、経典の漢訳も進み、四世紀末から五世紀の頃には朝鮮半島にまで広まっていたと考えられています。

○推古天皇の10年(602)の条には、百済僧の観勒(かんろく)が訪朝し、暦本や天文・地理書、遁甲(とんこう)・方術書を献上したと記されている。

○天武天皇(在位673〜686年)の時代、律令体制の整備、神道・仏教の掌握、国史編纂などの数々の施政により大和朝廷を盤石なものにした。
同時に、天武天皇は陰陽道にも通じており、『日本書紀』天武天皇の条の随所に「天皇は天文や遁甲の術をよくされた」、大友皇子を討つべく軍を起こした際に、「式(ちょく、一種の占盤)を執り占った」といったことが記されている。


◆呪禁道(じゅごんどう)
初期の律令時代の「陰陽道」は、主に天文、暦算などによる日や方位の吉凶等を“陰陽五行の理”によって判断し、バランスを整えて物事の解決をはかろうとするものでした。
それがどうして、安倍晴明や蘆屋道満(あしやどうまん)などの陰陽師に代表される、呪術性の強い「陰陽道」へと変化していったのかというと、同時期 (577年頃) に伝来していた呪術的道教・「呪禁道(じゅごんどう)」を吸収したことによります。

呪禁の「禁」は、「刀を手にして呪文を唱え、毒獣悪鬼、悪霊、病を退ける意」とされる。呪禁師(じゅごんし)たちは、呪術医として典薬寮(てんやくりょう)という国家機関に所属していましたが、吉備真備(きびのまきび)によって典薬寮が廃止されます。
存思(ぞんし)、禹歩(うほ)、掌決(しょうけつ)、手印(しゅいん)、営目(えいもく)の五法を行使したとされる呪禁師は、今でいうところの、気功師で、漢方医であり、呪術師でもあるといった存在だったようです。


◆修験道の中の道教・密教
大和朝廷成立以前から野(や)にあった民間「道教」は日本古来の山岳信仰と結びつき、修験者たちによって独自な発展を遂げていました。「修験道」の開祖とされている役小角(えんのおずぬ、役行者〈えんのぎょうじゃ〉とも呼ばれる)が有名です。小角の弟子の一人であったとされる韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は、呪禁師であったとされています。

五世紀頃に成立したとされる、仏教とヒンズー教などのインドの土着宗教が習合して出来上がった呪術性の強い「密教(みっきょう)」の場合も、雑密(ぞうみつ)といって、体系化されていない、純粋密教の断片とでもいうべきものが、七〜八世紀頃の日本の山岳修行者たちの間には逸速く伝わっていたようです。彼らに送り出されるようにして入唐し、密教の正統を引き継いで帰った(806年)のが弘法大師・空海です。     

★★★
とにかく、“官”に比べて“民”のスピードというのは、今も昔も、実に速いです。
当時は、渡来人たちによって、多くの事物が逸速くもたらされていたということになります。その早さには驚嘆させられます。
現在では、これら「道教」「陰陽道」の多くの要素が、神道行事や家庭祭祀の中に引き継がれています。★★★


[85] ●陰陽五行思想 Name:道開き Date:2011/08/12(金) 17:58 
古代中国文明発祥以降、数千年もかかって出来上がった「陰陽説」と「五行説」が、B.C4世紀の戦国時代の末頃に合体し、『陰陽五行思想』となったといわれています。これは、古代ギリシアの自然哲学とも対比されるほどに高度な哲学だともされています。その大要は以下のようなものです。

太陽から降り注がれる光は一年を通じて増減し、そのために春夏秋冬の四つの季節が生じている。この四季節の変化の推移を説明するものが陰陽五行思想である。

つまり、〈この世の初め、宇宙はいまだ混沌たる状態であったが、やがてその混沌の中から、軽く清んで暖かい気、すなわち【陽】の気がまず上昇して「天」となる。それと同時に、重く濁って寒い気、すなわち【陰】の気が下降して「地」になったという。
この二つの気・【陰陽】は、一年を周期として代わる代わるに消長盛衰する。その消長する間に、【木火土金水】という五つの活力のある気を生じる。この【木火土金水】も、【陰陽】と同じように一年を周期として代わる代わるに消長盛衰し、そのため一年の間に春夏秋冬の四季節の別が生じる〉という。


●四季への五行配当

春 ― 「木」

夏 ― 「火」

秋 ― 「金」

冬 ― 「水」

「土」は四季のどこに配当されるかというと、暦の二十四節気の中の、四立(立春・立夏・立秋・立冬)の前の18日間(合計73日)を「土用」とし、季節を変化させる働きをもたせた。

ちなみに「土用」は本来、「土旺用事」「土王用事」といい、土の気が旺(さかん)になり事を用いる意であった。用は「はたらき」ということで、土気の最も働く期間ということ。
「土」には、元来、物を変化させる作用があるとする。


[84] ●『先祖の話』 Name:道開き Date:2011/06/04(土) 07:13 
日本民俗学の草分けともいえる柳田国男の代表作です。「祖先崇拝」は、私の大学時代の卒論のテーマでしたので柳田国男全集はそれなりに目を通したものでした。

現在の日本において行われている祖先祭祀は、江戸期の徳川幕府によって推し進められた寺請制度により、お寺で行われている場合が多いのですが、その内容はというと、仏教というよりもどちらかと言うと、儒教や神道などの東アジア特有の「祖先崇拝」にあります。

テレビやグラビアなどで、インドなどの南アジアの人たちがお墓を建て「先祖供養」している姿を見たことがあるという方はいない筈です。仏教本来の教えでは、死後四十九日間は“中陰(ちゅういん)”<又は、中有(ちゅうう)とも云う>という全くの「無」の時間に入り、その後、魂が六道のいずれかに“輪廻転生”するのだとしています。つまり、「先祖供養」のような事は必要ないのです。

日本古来の民俗における「祖先祭祀」を見ると、死者は三十三年、又は五十年の期間に渡って、生者(子孫)からの供養を受け、その後、「弔い上げ(とむらいあげ)」が行われて、個としての霊殻を捨て去り、“ご先祖様”という霊の集合体(何十代、何百代にも及ぶ)に入るものとされてきました。
そうなると、お墓や御霊舎(仏壇)における祭祀は終わり、「祖霊神」となって、屋敷神やお正月様として祭祀を受ける対象となります。

私の今日までの神職としての経験から鑑みても、お墓や仏壇を粗末にすることによる障りよりも、屋敷神や神棚を粗末にすることによる障りの方がはるかに恐ろしく、逆に、丁寧にお祀りすることによる守護は大きなものとなります。
つまり、個人を相手にするか、団体組織を相手にするかの違いみたいなものです。
「個人主義」が蔓延している昨今では、こういった「ご先祖様」だとか、「国家」だとか、「地域(コミュニティー)」だとかいった概念は弱まりつつあるようにも思われます。良くない傾向だと思われます。


◆崇拝する対象
「生前にこの世で生きていた人を、どうして神社に神としてお祀りするのか」といった疑問を持たれる方も多いのではないかと思われます。それは、その方の生前の行いが神的側面を持ち合わせていたからということになります。さらには、そういった方たちを神として神社にお祀りすると、その背後にも、似た様な側面を持った勢力の神霊団が組織されてくるようになります。

それとは逆に、“悪魔崇拝”の様なことをしていると、「類は友を呼ぶ」的に、似たような勢力のモノたちが集まってきます。それが恐ろしいのです。そして、「人を呪わば穴二つ」的に祭祀者自身も自滅してしまいます。


[83] “ サクラ ” Name:道開き Date:2011/04/21(木) 18:32 
明日は、県内の若手神職からなる宮城県神道青年協議会の方たち10名程がいらして、復旧作業を手伝ってくださることになっています。有難いことです。

早いもので、当地も桜の季節となりました。
「花祭り」というと仏教では、お釈迦様の誕生にあたって天上から色彩りどりの花々が舞い降りてきたとされ、四月八日、釈迦像に甘茶を注いでお祝いする慣わしになっています。しかし、実際は、日本古来の「山籠もり」・「花摘み」・「山開き」といった民俗行事が仏教と習合したものだということです。

山里に花が咲く頃、日本の古え人たちは豊穣をもたらす山の神が里へ降りてきたと考えました。そして、田の神となって米作りの手助けをしてくれると信じました。

因みに、“サクラ”の語源は、“サ”が「小さな」という義で、転じて「稲の霊」を意味し、“クラ”は「座」で、「神が宿る依代(よりしろ)」ということになります。よって山の花々も、山の神の依代(よりしろ)と考えられていたようです。


[82] 東日本大震災の被害状況について A Name:道開き Date:2011/04/12(火) 10:13 
昨日、父の持病の薬をもらいに掛かりつけの病院まで足を運んだ際に、被災した地区の氏子のAさんから声をかけられました。

山神社の隣に住んでいた氏子のT屋さんから木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)の御神体を預かっているという、比較的、津波の被害を受けなかった地区に住むOさんが今、丁度に待合室にいるので会って欲しいということでした。

Aさんは現在、車で20分ほど離れた地区に集団避難していて、本当だったらここの病院に来ることもなかったのだが、この為に呼ばれたんだなと語っておられました。信仰の灯は消すことなく点し続けておられるようでした。

Oさん宅から御神体を受け取り、社務所神殿にお移しすることができました。


[81] 東日本大震災の被害状況について Name:道開き Date:2011/04/02(土) 14:29 
報告が遅れてしまい、大変申し訳なく存じ上げます。

河口付近は6〜7メートルの津波が来襲したようで、
白鬚神社、山神社、針生稲荷神社の社殿の多くは流出してしまいました。

ただし、白鬚神社の本殿(末社の五十鈴神社、不動神社の本殿も)は流出せず、境内地に留まり、それぞれの御神体はだいぶ離れたところにある社務所(宮司宅)の神殿にお移しすることができました。
その地も、3メートルほどの津波がやってきましたが、建物も、我々亀廼井家の者たちも何とか無事でした。

山神社、針生稲荷神社の本殿も、流出せずにその地に留まっていましたが、御神体が見当たらずにおります。その状況から見て、近くの氏子のいずれかの方かが、戻ってから一時的に保管して下さっているようにも思われます。氏子の方たちとは連絡が取れずにいます。

海津見神社の御神体は、神社の裏に住む氏子の方が保管して下さっていて、この目で確認することができました。大きな毘沙門天像なのでそのまま預かってもらっています。

ご近所の方々、町内会の皆さん、地元消防団の皆さん、被災部隊でもあった陸上自衛隊多賀城連隊の皆さんには本当にお世話になりました。

政府関係者、メディア関係の皆様、日本のみならず世界中のご支援くださっておられる皆様には心から感謝申し上げます。


[80] ●旧正(旧暦の正月) Name:道開き Date:2011/01/29(土) 07:28 
本来ならば、第一月である正月が、十二支の始まりの子(ね)の月というのが自然ですが、漢時代以降の中国では、夏(か)の時代〈紀元前22世紀〜前16世紀〉の正月・寅(とら)月を採用しました。

周(しゅう)の時代〈紀元前10世紀〜前3世紀〉には、“冬至(とうじ)”を含む子(ね)月を正月とし、周の前の殷(いん)の時代〈紀元前16世紀〜前10世紀〉には、それより一か月遅れた丑(うし)月を正月に、殷よりもさらに古い夏の時代には、さらに一か月遅れた“立春(りっしゅん)”に近い頃の寅(とら)月を正月としていました。

日本の旧正月は“立春系”であり、新正月は“冬至系”です。



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