白鬚神社 目安箱(掲示板)

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[73] ●東照(徳川家康)公御遺訓 Name:道開き Date:2010/05/24(月) 18:01 
小学生の頃、母親が、日光へ団体旅行に行ってきたお土産にと、大きな灰皿を買ってきた。どういう訳か、その灰皿に書かれていた一文がやたら気に入り、何度となく読み返している内に頭の中に書き込まれたようにも思われます。その一文というのは以下のものです。

●徳川家康公遺訓
  人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くが如し
  急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
  心に望み起らば 困窮したる時を思いだすべし
  堪忍(かんにん)は無事長久の基(もとい)  怒りは敵と思え
  勝つことばかり知りて 負くることを知らざれば 害その身に至る
  己を責めて 人を責むるな
  及ばざるは 過ぎたるよりまされり

作者は不明とされているが、家康公がその晩年に、家臣に色々と苦労話をされたものが元になっているらしい。

徳川家康公は、幼少期を今川義元の人質として過ごした。成人してからは、気難しい織田信長と盟約を結び、当時最強とされた甲斐の武田軍と三方ヶ原で戦い、完膚無きまでに叩きのめされ、多くの家臣を失いました。あまりの恐怖から脱糞までして浜松城に逃げ帰ったとも伝えられており、その情けない姿と苦渋の表情を絵師に描かせ(通称「顰(しかみ)像」)、生涯を通して、自分に対する戒めとしたという逸話も残る。


自分なりに気に入っている言葉には、以下のようなものがあるのだが、それらのエッセンスがすべて凝縮されている一文のようにも思われます。

「継続は力なり」 「石の上にも三年」

「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」

「ピンチの中にチャンス有り。逆も真なりで、チャンスの中にピンチ有り」

「急がば回れ何事も」 「慌てる乞食はもらいが少ない」 「大器晩成」 
「難しい問題を楽に解決しようとする時、人はノイローゼになる。
 ・・焦りは禁物、自滅につながる。」

「温故知新」 「よく遊び よく学べ」 「バランスの取れている事こそが最善・最強なり」

「身の丈にあった生活をおくる」 「何事も“腹八分目”」  「桃栗三年 柿八年」


信長のような天才肌の人物でもなく、秀吉のように天性の明るいキャラクターを持ち合わせ、人心掌握術に長けていたわけでもなく、我々、凡人に極めて近いようにも思われるが、自らの失敗経験を力に変えてきた“スーパー苦労人”家康公の「遺訓」は、示唆に富んだ、非常に有益なものに思われます。
(場合によっては、陽明学者・大塩平八郎のような、「義を見てせざるは、勇無きなり」的な“超爆発力”も必要だとは思いますが・・・)

とにかく、個々の日本人のマン・パワー(人間力)がどんどん弱まり、その結果として、日本の国力が弱体化し続けているように思われる昨今です。それは、戦後の家庭や学校教育が、こういった道徳、哲学を教えようとせず、いたずらに“偏差値主義”に走ったり、「夢を持つ」ことだとか、「輝きを持て」だとか、「個性的であれ」だとかいったような、“個人礼賛”的な綺麗事ばかりを奨励しすぎて来たことに起因するようにも思われます。
つまりは、古人の生々しい体験から生まれた「人生訓」のようなものだとか、「四字熟語」に代表されるような“故事成語”などの貴重な精神文化を、古めかしい時代遅れのものとして軽視しすぎてきたことによるものとも考えられるのです。

今の日本、“精神文化”(つまりは、日本国家の目に見えない部分)の衰退に起因する、国家そのものの没落が始まっている状態なのではないでしょうか。それにつけても、「ほんとうに大切なものは目に見えないんだよ」といった、童話『星の王子さま』の金言が心に染み入ります。

[72] ●修験カリスマの衰退と新宗教の勃興 Name:道開き Date:2010/04/09(金) 13:47 
日本古来の山岳信仰(神的原理)と外来宗教の仏教、特に密教(仏的原理)が結びついて発生したのが「修験道」という“習合宗教”だとされており、奈良時代における役行者(えんのぎょうじゃ)が「修験道」の始祖のようにも説かれています。

平安期には最澄や空海などによって、比叡山や高野山をはじめとして、数多くの山岳寺院が形成されました。江戸期には、一般庶民の間で、山岳登拝組織である“講(こう)”が組まれました。大きな講などでは、大先達(だいせんだつ)の元に数千人の信者が集まったとされています。

明治元年の「神仏分離令」、明治五年の「修験道廃止令」により、修験者は、神職になるか、僧侶になるか、還俗するかの選択を強いられ、多くの山岳寺院も、神社や仏教寺院となり、“講(こう)”からは、数多くの教団が生まれました。昭和20年の敗戦後には、更に拍車が掛かり、あまたの新々宗教と呼ばれる教団が生まれました。

つまり、新興宗教と一般的に言われるものは、信仰的ソフト面は、日本古来の“習合宗教”であり、組織形態は“講(こう)”組織であるという。

明治維新後、神社界は「官」としての立場を強いられ、敗戦後は、「民」的立場に戻されました。現在はさらに、「官から民へ」という社会状況の変化が強まっていることもあり、神社界も、各神社も、「官的な」NHK教育的発信のみならず、せめて、NHK総合的チャンネルを設定して、より一般人に解りやすくソフトを発信していかなければならない時代に入っているのではないかとも考えられるのです。

特に、個々の神職については、明治維新以前の“修験カリスマ”のような側面を所持していかなければならない時代に入っているようにも思われます。


◎参考
―情報化社会における神々の再生―
『現代日本の新宗教』(創元社)  桃山学院大学 沼田健哉 著


[71] ●神社信仰の「重層」構造 Name:道開き Date:2010/02/26(金) 11:15 
神社信仰の基底にあるのは、日本的“シャーマニズム”・“アニミズム”の原初形態です。『古事記』や『日本書紀』などの古典の中にも窺うことができます。
その上に、大陸伝来の「漢字」文化と共に伝わった外来の信仰(“道教”、“陰陽五行説”、“仏教”、“儒教”等)が、幾重にも積み重なり、混合しあって今日に至っています。
その概要については、当ウェブサイトのコンテンツ・メニュー[マンガ]を御参照ください。

「強いもの、賢いものが生き残っていくのではなく、変化することができたものが生き残っていく」という、ダーウィンの『進化論』的に捉えたならば、神道は常に外来の信仰と融合し、変化し続けて来たわけです。

“神仏習合”思想により、弘法大師・空海の真言密教と結びついた「両部(りょうぶ)神道」や、天台宗の開祖・伝教大師・最澄が比叡山にお祀りした日吉社を山王(さんのう)と仰ぎ、天台宗の護法神とした「山王一実(さんのういちじつ)神道」など。
さらには、“陰陽五行説”、“陰陽道”と習合した「土御門(つちみかど)神道」や、江戸期の儒学者たち(林羅山、徳川光圀、山鹿素行、貝原益軒、二宮尊徳、藤田東湖、山崎闇斎などに代表される)が唱えた“神儒一致論”にもとづく「儒家神道」があります。

百年ほど前のアメリカでは、学校で『進化論』を教えることが禁止されていたらしく、生徒に『進化論』を教えた高校教師が、教会側から裁判を起こされたといった有名な史実も残っているようです。

ダーウィンの『進化論』と言えば忘れてならないのは、「ダーウィンに消された男」として有名な、若き博物学者アルフレッド・ウォーレス博士の存在です。ダーウィンに先がけて『自然淘汰(とうた)説』をまとめあげたにもかかわらず、喜びの余り、安易にダーウィンに当てて書簡を送ってしまい、学界で先に発表されてしまったのでした。

その南洋諸島での研究生活中に、心霊現象に興味を覚え、帰国後に本格的研究に着手し、「自然淘汰説だけでは説明できずに残されている博物学上の現象がどこまで説明できるかを、論理的かつ科学的に押し進め」、その成果を学術誌に発表しました。そのことが、学者としての地位を損なう事にもなりましたが、「事実とは頑固なものである」との有名な言葉を残し、多くの論文を一冊の本にまとめあげました。それが『Miracles and Modernpiritualism(奇跡と近代スピリチュアリズム)』です。

つまり、何が言いたいのかというと、各時代の様々な思想によって神道が語られることは、歴史的に見ても、繰り返し行われてきたことであり、「理」に叶った、極めて健全なことなのだとも考えられるのです。

◆『自然淘汰説』(参考)
生き物は、突然変異などで遺伝子が変化し、少し違う者が生まれる。
その中で、生き残れる者が生き残り、生き残れない者が消えていく。
遺伝子が変化することで、感じ方が違ってくる。
感じ方が違うことで、行動が違ってくる。
行動が違うことで、生き残る者と消えていく者に分かれる。


[70] ●「魔女」&「鬼」 Name:道開き Date:2010/02/01(月) 16:47 
ドイツのある地方で、冬を追いやり、春を呼び、幸運をもたらす存在とされているのは「魔女」です。フランスなどでも、「ご先祖」がそういった役割を果てしているとし、春祭りが行われてきた地方もあります。
これらは、キリスト教がヨーロッパに伝わる以前の、古い風習が残っている例です。キリスト教伝搬以降、「魔女」は邪悪な存在の代名詞のようにもされてしまいました。

日本の場合はどうかというと、「魔女」ではなく、「鬼」ということになるのでしょう。
中国で「死者の魂」を意味した漢字の「鬼」は、日本では、「オニ、モノ、カミ」と読まれました。
信仰形態などから、三タイプに分けられるようです。

@災禍をもたらす邪神としての鬼、当時の王権に抵抗した人々の神。そして、怨みや妬みを持って祟りをなす死霊・生霊(女性の場合は般若〈はんにゃ〉)としての鬼です。
A異国の民(夷狄)、非服従の民、漂泊の芸能者、呪力を持つ宗教者、盗賊、山の民・・・。
B密教寺院などで正月に行われる修正会・修二会や、秋田のナマハゲなどの民間の正月行事のなかにみられる鬼。これらの儀式では、宇宙の邪悪なものを象徴させた「鬼」が、国家や村落、家々のケガレを一身に背負って退散してくれる役割を担っているために喜ばれます。


★節分の豆まき
中国から伝わった、宮中における「追儺(ついな)の儀」(「おにやらい」ともいう)が元となります。祭文を奏して、鬼に扮した人を桃の弓や矢、棒などで追って、悪疫邪気を退けようとするもの。本来は大晦日に行われていました。
「豆まき」は、室町時代に始まったとされますが、現在でも使われている「鬼の面」は、仏教で説く獄卒の鬼や餓鬼の図象とともに、追儺の儀で、鬼を追う“方相氏(ほうそうし)”のつけた四つ目の方形の仮面が影響したとされています。
(映画『千と千尋の神隠し』で、湯宿に来訪する八百万神々のキャラクターの中の一つに、この“方相氏(ほうそうし)”の姿が見受けられました。)


[69] ●神社とは、或る種の“装置”みたいなもの Name:道開き Date:2009/12/24(木) 10:38 
いよいよ年の瀬も押し迫り、残すところあとわずかばかりとなりました。新たなる年を迎えようとしています。

そもそも神社とは、神霊に心を合一させるための「魔法陣」のような構造になっているものなのです。
〈邪霊にコンタクトするための装置といえば、日本の「狐狗狸(こっくり)さん」の元にもなった、西洋の「ウィジャ盤」等です。〉


その起源は、縄文時代早期の
●「環状列石(ストーン・サークル)」・「列状配石」などの祭祀遺跡にあります。


それが、
●「磐境(イワサカ)」
神霊を招くために、岩石などによって設けられた祭場。外界との境界となる石。
●「磐座(イワクラ)」
神霊の依代(よりしろ)となる岩石。神さまが来臨する石。
へと変化します。
   ↓

さらには、
●「神籬(ヒモロキ)」
神霊の来臨を仰ぐため、樹木や枝によって作られた臨時施設。

★★★家を新築する際に行われる「地鎮祭(じちんさい)」等は、上記の「祭祀要素が集約されたもの」です。
   ↓

やがては、
●「社(ヤシロ)」 
「屋代(やしろ)」のことで、屋を建てるために設けられた区域、もしくは屋の代りになる物。つまり、常設の社殿の存在しない、祭場となる特定の聖域。

   ↓
●「宮(ミヤ)」
次第に、神霊の常在を願う気持ちが高まってくると、祭祀のたびに新設する簡単な建物ではなく、常設の社殿となる「ミヤ」がつくられるようになります。
「ミヤ」とは「御屋(みや)」のことで、単なる屋ではなく、”尊い建物”を意味します。

といった変遷を遂げました。


神棚、仏壇、お墓も同様で、或る種の“装置”みたいなものだとも言えます。


◆縄文人の「神棚」
縄文時代の中期から後期にかけて、居住地の奥壁部には
“石柱(立石)”や“石棒”が立てられていたり、“石壇”
とよばれる床より高い位置に平石、敷石を配したものが
ありします。その近くには炉がつくられ、土器や石皿
を置いて供献物を浄化して、“立石”に憑かるマナ(神霊)を
まつる儀礼(祭祀)がおこなわれていました。


[68] ●司馬遼太郎の『坂の上の雲』 Name:道開き Date:2009/11/28(土) 20:01 
よくよく考えてみると、私、明日から三年間に亘ってNHKで放映されるドラマ『坂の上の雲』の作者・司馬遼太郎さんに、25年ほど以前にお目にかかったことがありました。その頃に奉職していた県内の某神社でのことです。何のお話をすることもなく、ただこちら側で見かけただけのこと。
当時の司馬遼太郎さんは、『街道をゆく』という紀行シリーズを執筆中だったようで、そのための現地視察にいらしていたそうです。

氏の作品『坂の上の雲』には、明治の人たちが、いかなる熱い思いを抱いて国づくりに取り組んだのかが描かれていますが、明日がその第一回目の放送だということです。現代の日本人が失ってしまったとされるものを、再確認してみたい思いでいっぱいでおりす。

以下は、だいぶ以前に、『坂の上の雲』について当サイトの掲示板に書き込んだものですが、再度掲載させていただくことと致します。



[319] 乞食(こじき)の“ズタ袋” 投稿者:道開き 投稿日:2005/11/03(Thu) 21:01  

IT、ネットワ―ク、ハイブリッド、ナノテクノロジ―、ロボット・・・等のハイテクといったものに心踊らされ、ワクワクさせられます。地球環境、自然、伝統技術、匠(たくみ)の技・・・等といったものには教え諭され、ついつい謙虚にならされることが多いです。この対極に位置するかに思われるどちらの事象にも、同じく興味が尽きないでいられるということは、それほど自分のバランス感覚は悪くはないのかなと・・・・

というか、ハイテクというものは、ロ―テクの堅実なる積み重ねとか、細微にわたる自然観察から生み出されているようにも考えられますので、あえて分けて考える必要もないのでしょう。

以前、何かの本に書いてあったのですが、はたして司馬遼太郎の小説だったように記憶していますが・・・・・
「知識というものは、乞食の背負っているズタ袋のようなものが良い。本当に必要なものだけが、中から何かまわず出てくる」と。
なるほどなと思わされる一節でした。

そういえば、歴史上、世界中を驚嘆させた日本海海戦における日本の大勝利が思い起こされます。当時、世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのは、戦術上の非常識とみられた参謀・秋山真之の編出した“東郷タ―ン”でした。それは、瀬戸内の村上水軍の古戦術を参考に組み立てられたものだということです。

もし、秋山が、当時の先進諸国の海軍が使用していた戦術テキストの知識のみに頼ってしまうような、模範的優等生タイプの人物であったとしたのなら、今頃、日本、そして、アジア、アフリカはどうなっていただろうか。へたをすると未だに西洋の列強諸国の支配下にある可能性も否めません。




[320] 世界の常識は、日本の非常識??? 投稿者:道開き 投稿日:2005/11/08(Tue) 21:56  

陰陽五行説は「バランス学」だとも言えます。“陰陽”のバランス、“五行”のバランスが取れていることこそが最良、最強となります。以下は歴史教育のバランスについて。

今年は日露戦争100周年の年に当たる年らしい。
明治期、世界史の奇跡とも言われる“明治維新”を成し遂げた日本はではあったが、まだまだ発展途上の弱小国で、西洋列強の一つ、北の大国・露西亜(ロシア)の脅威には常に怯え続けていました。そんな日本が大国ロシアを打ち負かしてしまったのです。よく相撲に例えられて、「平幕の力士が横綱を負かしたのと同様だ、いや、それ以上の大金星をあげたのだ」とも評されます。
・・・・・・・・日露戦争までを“明治維新”とみる「史観」もあるようですが、その見方にはかなり納得がいきます。

今年のNHKの大河ドラマは、本当は、日露戦争100周年を記念して、司馬遼太郎の『坂の上の雲』が当てられる構想だったそうな。ところが、余りのスケ−ルの大きさ故に中止になってしまったと聞いています。本当の話はいかがなものだったのか。

書き込み〔319〕に記した“東郷タ−ン”を考案し、世界最強のバルチック艦隊を殲滅した海軍で戦った弟の秋山真之と、やはり、馬に乗らせたら世界最強といわれたロシアのコサック兵(彼らは、生まれた後は、ほとんど馬上で育った兵士たちとまで言われていた)に対抗できる騎馬隊を組織する使命を受け、「奉天会戦」に勝利した、陸軍所属の兄の秋山好古(よしふる)が主人公となる作品でした。

日本の大勝利には、ロシアに虐げられてきた北欧・東欧諸国、トルコなどの中東諸国では、国を挙げて歓喜したそうです。さらに、世界中の有色人種たちも日本の勝利に大いに奮起したということです。
ニュ−ジ−ランドのマオリ族なども、日本の勝利に沸き立ったという内容のテレビ番組を見たことがあります。当時のニュ−ジ−ランド政府は反乱が起きることを危惧し、彼等を押さえにかかったのだそうだ。北欧では、東郷平八郎の名を付けた“東郷ビ−ル”という銘柄のビ−ルが今でもあるそうです。

世界では、歴史上の海の英雄は誰かということになると、決まって、トラファルガ―海戦でスペインの無敵艦隊を打ち破った英国のネルソン提督か東郷平八郎元帥の名が挙げられるのだそうです。それでもやはり、NO.1は誰かということになると、どうしても東郷平八郎ということになるのだそうです。

第二次大戦後の日本では、こういった戦争に関することは、総て軍国主義に繋がっていくものとされて、なかなか教えようとしない傾向にありました。日本史の教科書でさえも、東郷平八郎の名を載せていない歪んだ歴史教科書も多いということです。まさに自虐国家・日本と言われてしまう所以でもあります。

これでは、日本に誇りを持とうとする日本人が減っていくのは当然かとも思われます。(テレビで、他国の人たちが自国に誇りを持って、歌ったり踊ったりしながら、お国自慢をしているシーンなんか見ていると、つくづくいいもんだなぁ〜と思えます)
 こういった国情を憂いた故三波春夫さん(日本の国民的歌手、シベリア抑留などの戦争体験を持つ)などは、自分で歴史の研究をし、本も出版していました。

人が一生懸命したことに順位をつけるのは良くないこと、人は皆平等なのだとして、運動会の徒競走に順位をつけなかったりする学校もあるそうです。
かといって、そういった「悪しき平等」とも呼べる教育環境で育った子供たちも、一端、実社会にでてしまうと、生き馬の目を抜くような国際競争にさらされるのです。それを思うと、余りにも教育界と実社会とのギャップがありすぎると、しわ寄せが総て子供達にゆくことになります。

教育には、頭の中だけでこしらえた理想よりも、できるだけ現実に即した理想を掲げていってもらいたいものです。もう少し、現実とのバランスを考えてもらいたいです。


[67] 映画『劔岳 点の記』&『八甲田山 死の彷徨』 Name:道開き Date:2009/10/22(木) 13:10 
共に、新田次郎原作の作品です。『劔岳(つるぎだけ)』では、『八甲田山』で撮影監督を務めた木村大作さんが、初監督をなさったようです。

映画『劔岳 点の記』の主人公となる、明治の測量官・柴崎芳太郎と山案内人・宇治長治郎(日本版デルス・ウザーラのような人物)たちの辿った足跡を、“現代の”測量士と山岳ガイドたちで実際に探し当ててみようといった試みを取り扱った、HV特集『日本の名峰 劔岳測量物語 明治40年点の記』という番組を見る機会を得ました。

番組中、幾度と無く、天空に高くそびえ立つ劔岳の姿が映し出されるのですが、その度に、感動で涙が溢れ出そうになってしまいます。自分でも意味が分かりません。
おそらくは、私の守護霊さんか、私自身の前世の魂の記憶が感動していたのでしょう。以前、江原さんから、私の守護霊であるという山岳修行の行者さんからのメッセージを伝えていただいたことがありました。13年も前のことです。

その前人未踏の山だとされてきた劔岳の山頂に、柴崎たち測量団一行が、命懸けの試行錯誤を繰り返し、やっとの思いで辿り着いた際に、或る不思議な物を発見します。錆びた鉄製の「剣」と銅製の「錫杖(しゃくじょう)頭」でした。
奈良時代後期から平安前期頃に作られた物らしく、何と、既に1,200年前には、山伏たちが劔岳の山頂に登頂しており、山の神さまに対してお供え物を捧げていたというのです。

映画も見てみたいと思い、早速、DVDレンタル店に足を運んでみましたところ、12月11日がこの作品のレンタル開始日だと聞かされ、落胆して帰ってきました。まだ一月半もあります。

さて、話は、映画『八甲田山 死の彷徨(ほうこう)』に変わります。この作品は、学生の頃に映画館で見ました。当時、学部は違っていましたが、青森出身の女子学生を「八甲田山」とニックネームを付けて呼んでいた友人の一団がおりました。ここでは、その事の善し悪しは論じませんが、それ程までに強烈なインパクトを世に与えていた映画だったように記憶します。
私も、この作品から、人生における様々な教訓を与えてもらったような感じもしています。

一つは、物事に取り組む際には、周到な準備を重ね、幾度と無くシュミレーションを繰り返し、用心深く行っていかなければならないということ。

そして、どんなに用意周到で緻密な計画を机上で立ててみても、現場を知った者、経験を積み重ねてきた者の存在を抜きにしては、成功が叶わないということ。
映画の中に出てくる、案内役を務めた秋吉久美子さん演じる土地の娘っこの“土地勘”には、長期に渡って訓練を積み重ねてきた屈強な軍人たちも叶わないのでした。

更には、そういったものを全部揃えて事に当たったとしても、現実を無視した上層部の誤った命令一つで、大惨事を招いてしまうということ。第二次世界大戦中の「インパール作戦」なんかはまさにそれです。

これらのことは、軍事のみに限った事ではなく、世の中のあらゆる人の営み万事に、そのまま当てはまる教訓のようにも思えます。

[66] ●『ゾマホンのほん』 Name:道開き Date:2009/09/29(火) 13:47 
下の書き込み[65]に続きます。
テレビ番組『そこが変だよ、日本人』と云えば、どうしても思い起こされるが、あの早口でしゃべりまくる、愛すべきベナン人のゾマホン・ルフィンさんです。
そのゾマホンが本を出したということで、すぐに本屋へと足を運び、買って読んでみました。その本の題名はというと、そのものズバリ、『ゾマホンのほん』でした。

当時のゾマホンさんは、アフリカの小国・ベナンの未来を背負って、日本にやって来ていた留学生でした。過去の日本に当てはめたなら、おそらくは、明治期の夏目漱石、森鴎外、新渡戸稲造、野口英世のようにも成り得る存在です。

本の内容はというと、私が学生の頃から心配し続けてきた事と全く同じ内容の事柄が、そのまま書かれていました。
つまり、アフリカ大陸に入ってきた西洋文明が、アフリカの精神文化、経済等の社会の仕組みの総てを根こそぎ破壊してしまったこと。それは日本でも、スピードの違いこそ有れ、同じような動きが確実に進行しているということ。しかし、どうにか踏みとどまっている日本には、何とかして頑張り続けてもらいたいこと。・・・・

我々のような日本文化の担い手としましては、古代の地中海で起こり、全ヨーロッパ、そして、アメリカ大陸、アフリカ大陸へと広がった大波に飲み込まれないよう、よほど気を引き締めていかなければならないのでしょう。

とにかく、今日のように、メディアが発達を遂げ、IT革命が起きてしまった社会といったものは、もはや、情報や思想、価値観が強大な組織によって一元的に発信される時代ではなく、多元的に、幾重にもシンクロされたものとなっているようです。つまり、多神教的、アジア的なものにとっては非常に有利な社会になっているとも言えます。
問題となるのは、そういった事実をしっかりと把握できているのかどうかにあるのだとも考えられます。


[65] ●布留部神業(ふるべのかんわざ) Name:道開き Date:2009/09/26(土) 20:57 
下の書き込み[64]に続きます。
「布留(フル)のヤシロ」と呼ばれて来た奈良県の石上(いそのかみ)神宮こそが、物部(もののべ)氏の氏神社です。古くより伝わる「鎮魂法」は布留部神業(ふるべのかんわざ)として今日でも伝わっております。神社本庁でも、神職が修養すべき行法として認可しています。その中の、

「ふるへ ゆらゆらと ふるへ」

という唱え言葉は「布留(フル)の言(こと)」といって、「十種の神寶(とくさのかんだから)」の御名とともに唱えられます。

10年ほど以前になりますが、当時、“現代の陰陽師”こと和田さんという方が、スタジオの50〜100人の外国人に白い紙のようなものを渡し、掌に挟ませた状態で手を組ませ、この「布留(フル)の言(こと)」を唱えたところ、半数近くの人が神憑り状態になってしまったところを、あるテレビ番組(おそらくは、北野タケシさんの『そこが変だよ、日本人』だったと記憶する)で見たことがあります。

あの批判精神旺盛な外国人たちが、集団でのヤラセに応じるはずもなく、やはり、その際には「鎮魂」が「帰神」にまで至ってしまったが所以の出来事だったのだと理解しています。

この話は以前にも取り上げたことがあるのですが、当時、あの外国人たちの掌に挟まれた白い紙というのは、「剣先符(けんさきふ)」なのかとも考えていましたが、最近になって考えられるのは、おそらくは「十種の神寶(とくさのかんだから)」が記された紙だったのではなかろうかということです。

私的経験から言うと、「十種の神寶(とくさのかんだから)」の御名を唱える方が、憑いているモノの霊的活動は活発になります。
と云うか、自分の霊魂も他者の霊魂も旺盛に活動し始めるのです。

江戸期の著名な儒学者で、「垂加(すいか)神道」を創唱した山崎闇斎なども、両掌に「十種の神寶」を記した符を蔵して鎮魂の業を行っていたことが伝えられています。


余談になりますが、当地野蒜は、平成15年の市町村合併以前までは、桃生郡鳴瀬町の一部でした。桃生郡の「桃生(ものう)」は「もののふ」からきている名称であるとされています。
当社の前を流れる鳴瀬川の対岸には石上(いしがみ)神社という神社があり、当社でもお祀りしている沖の明神岩を御祭神として拝しています。
私、20代の頃には県内の某神社に、現在の石上神宮の森宮司さんと5年ほど一緒に奉職していました。訳あって家まで来ていただいて、祖母に輸血までしてもらったこともあります。その数年後には、石上神宮の社務所に泊めていただいて、ご夫妻に案内していただき、奈良の“超田舎チック”な夜を堪能させていただきました。
何か、やたらと「もののべ」との関係が深いような気がしてならないのです。


[64] ●古代祭祀 Name:道開き Date:2009/08/26(水) 14:16 
下の書き込み[63]に続きます。
相変わらず、古代におこなわれていた祭祀に対し、特に、物部(もののべ)氏、忌部(いんべ)氏などの古代氏族に伝わっていた神道祭祀について、非常に興味を感じています。

これは私的経験による見解なのですが、“モノノケ”的なもの、“魑魅魍魎(ちみもうりょう)”的なものに対しては、これら古代氏族の祭祀が非常に有効で、かなりの威力を発揮してくれます。

6世紀、仏教の受け入れに際し、親仏派だった蘇我(そが)氏と激しく対立したのは物部氏でしたが、政争に敗れてからは中央政治の舞台から姿を消すことになりました。
「武士」を意味する古語「もののふ」の語源は「物部(もののべ)」からきていると言われているように、古代の軍事を掌握していた氏族であったとされていますが、古語の「カミ」と「モノ」はほとんど同義と解されているように、中臣(なかとみ)氏、忌部(いんべ)氏、卜部(うらべ)氏、猿女(さるめ)氏同様、古代の朝廷祭祀に奉仕した神祇(じんぎ)氏族としての一面も持っていたようです。よって、独自の神道祭祀を伝え残しています。

「大化改新」が始まり、中臣(藤原)鎌足らによって蘇我氏が滅ぼされ、藤原氏が旺盛を極める時代となり、祭祀面では中臣氏(=藤原氏)が力を強めることになります。
国家の正史とされる『古事記』、『日本書紀』が編纂された当時は藤原氏が力を持っていたので、中臣氏こそが祭祀を司っていた氏族の中心であったかのように書かれています。
その事に対して反感を抱いていた古代祭祀氏族たちは、後に正史から漏れた古伝承や祭祀についての書を著します。忌部氏からは『古語拾遺(しゅうい)』が、物部氏からは『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ・略して「旧事紀(くじき)」とも言う)』が編纂されました。

これら氏族の埋没しそうになっていた古代祭祀は、幸運にも、後の1,025年に、宮中の祭祀を司り、天皇家の霊性を守ることを第一の目的として創設された白川神祇伯王家(しらかわじんぎはくおうけ)の“伯家(はっけ)神道”の中に流れ込むことになります。明治2年までの、823年間に渡り継承されました。

江戸時代の文献を見ると、これらの宮中で行われていた古代祭祀の一部が全国の多くの社家にも伝わっていたり、民間にも広まっていたりで、結構盛んに「古代祭祀の業(わざ)」が行われていたようです。さらに江戸期には、「国学」が興り、“儒家神道”や、“復古神道”も隆盛を極め、伊勢参宮も盛んになったり、黒住、天理、金光などの神憑りの教祖たちによって創唱された民衆宗教も盛んとなりました。

その後、「明治維新」となり、“王政復古”の大号令の元、“祭政一致”の原則が宣言され、神祇官が再興されたりと、明治政府による表向きのイデオロギー政策だけは立派???でしたが、吉田家・白川家の神職支配を廃止したり、神仏判然令が出されたり、神社の世襲廃止令が出されたりと、「“不信心な”猫の目行政」により、神社界は、信仰的には大打撃を受けることになりました。
明治17年には、創設されたばかりの教導職制度も全廃され、「神社は宗教にあらず」という行政的解釈により、“政府の対神社政策の基調”が定まったようです。

(この辺の経緯については、神社新報社が出している神社本庁研修所編『わかりやすい神道の歴史』に詳しく書かれていますので参考になります。)

明治期、吉田家・白川家の神職支配の廃絶以降も、全国の多くの神職の間には、江戸期までに伝わっていた古代祭祀の多くが残っていたようです。しかし、時代を経るに従い、少しずつ埋没し、形骸化が進んだようで、その多くは神道系の新宗教へと流れ込みます。

★結局のところ、私としましては、明治政府の神道政策によって散り散りにされてしまった古代祭祀の再評価、つまりは、「神道版ルネサンス(古代復興)」のような動きが強まっていくことを期待して止まないのです。今後の神社界はいつまでも、明治期に創られた官制の強い、非宗教的な神道を引きずる必要はないと考えるのです。



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